「……念のため、辺りは浄化した」 魔方陣を描き白い光に包まれた後、クロエがポツリと吐き出した。 「これで、この一帯は安全。……『原初の者(プライマル)』が戻ってこなければ」 「……汚染源である『原初の者(プライマル)』は配下の幽魔を引き連れて、何故か一旦退いた。……そう、本当に何故か、ですわ」 口元に手を当てる考え込むリンカ、そしてその隣でマソラが大きく深呼吸をしていた。 「げほっげほっ……あー、死ぬかと思ったってのよ……」 「これに懲りたら、余計な事に首を突っ込まない事ですわね。そうすれば、死にそうなほど怖い目には合わずに済みますわよ」 「呼吸の方! アンタがやったんでしょうが!」 だが彼女はそれを無視し、再度考え込み始めた。 「そんな事より……あのままであれば、配下だけでもわたくしたち全員を飲み込むには十分だったはず。『原初の者(プライマル)』は何故退いたんですの……?」 と。 ふと、いつの間にか足元にはあの灰色ネコがいた。 「ここに戻ってくる道すがら、『セントラル』に救援を要請しておいたよ。援軍の部隊が、明日の夕方には到着するはずさ」 「援軍……?」 そして、その答えを小柄な少女が引き取った。 「そう。封印が解けた『原初の者(プライマル)』がどの地域に潜んでいるか分からなかったから、『セントラル』は人員を各地に散らばらせた」 「でもこれでこの付近にいる事が分かったから、全部この街に集合させる……って事か」 彼女が言う『セントラル』とやらがどんな場所であるかは分からなかったが、きっとリンカみたいな力を持った人間がゴロゴロいるのだろう。 自分はもちろん、マソラよりもよほど役に立つはずだ。 「で、そいつらが到着したら俺たちは……」 用済みになるから解放してくれるのか、と続けそうになったが、目の前にリンカがいる事を思い出して慌てて口を閉じる。 「……さて。『原初の者(プライマル)』が退いた理由は分からないけど、これでしばらくは戻ってこないはず。だから今日はここで解散」 「……おう」 その言葉通り、タイキは背を向ける。 例の幻覚ではないが、きっと近いうちにあの『原初の者(プライマル)』と再度相対するイメージが見えた気がした。 と。 「先に帰っていてくださいな。わたくしはまだやる事がありますの」 扇子で顔をあおぎながら、リンカがゆっくりと歩き出す。 「あん? 追撃でもしようってのか? 相手は退却したんだろ?」 「本当に『原初の者(プライマル)』は退いたのか、一体の汚染は確かに消えたのか。調べませんと」 「……待って。だったらワタシも……痛っ」 クロエが伸ばした手先が、閉じた扇子で払いのけられる。 「他人には任せませんわ。自分でやる方がよほど確実ですもの」 「……」 「それに、別に気にせずとも構いませんわ。たかだか10分程度の散歩ですから」 そして彼女の歩みは、どこか足早になった。 「もしわたくしを気遣っていただけるのなら、立場を弁えて2度と首を突っ込まないでいる方がとっても助かるのですけどね?」 そしてリンカの姿は、そのまま見えなくなった。 「……さ、ここは言う通り彼女に任せて、僕たちは帰らせてもらおう。『原初の者(プライマル)』はもちろん、低級の幽魔の気配すらもう感じなくなっているしね」 背を向けてあのマンション方面に歩き出したクロエの後を、トオルが追う。 「……じゃ、俺たちはこれで帰るかんな」 「じゃねー。また今度」 その時、背後からネコの声が飛んでくる。 「……おそらく、『原初の者(プライマル)』は近日中に再度現れるはずだ。それは3日後かもしれないし、明日かもしれない。もし後者だった場合『セントラル』の援軍無しで、僕たちだけで急場をしのぐしかない」 「……」 その言葉に、心の中で舌打ちする。 それが意味する事は、自身とマソラが再度あの『原初の者(プライマル)』に対峙しなければいけないという事であり。 もちろん戦って勝てるとは1ミリたりとも思ってはいなかったが、5分として耐えきれるかどうかすら怪しかった。 そんな戦いの場に、自分たちは向かわなければならないのだ。 数メートル先で背を向けたままのこのネクロマンサーに、文字通り命を握られている。 仮に逃げ出したところで、彼女はいつもの無表情のままあの髑髏を粉々に砕くだろう。 「……ああ、分かったよ。次で最終決戦、呼び出したらすぐに来い、って言いたいんだろ?」 と。 それまでずっと背を向けていたクロエが、一瞬だけ振り向き。 「――」 「……っ」 ある言葉を、短く吐き出した。 「……行くよ、トオル」 それから彼女は小動物を伴い、再度背を向けて夜の闇の中へと消えていった。 「……。ま、異常なし、ってところですわね」 近くの雑居ビルの屋上から辺りを見回したリンカは、そうつぶやいて息を吐いた。 眼下の夜の路上は、先ほどの戦闘が嘘のように静まり返っている。 あの巨大な『原初の者(プライマル)』がつい先ほどまでそこにいたとは、リンカ自身も半ば信じきれずにいた。 「……」 そしてふと先ほどの戦いの事を思い返したリンカは、扇子を口元に当てて顔をしかめた。 「……それにしても、役立たずは1億歩譲って仕事だから仕方ないとしまして……何ですの、あの貧乏人たちは……」 ロクに役に立たない上、帰れといくら諭してもなおも首を突っ込んでくる。 少年の方はまだ話が通じそうではあったが、あのやたら叫ぶ少女の方に対しては、まだカブトムシの方が会話が成り立ちそうな気がしていた。 「……理解できませんわね」 そもそも、これほどまでに危険な事に何故好き好んで首を突っ込んでくるのだろうか。 もしやあの役立たずか、多少は役に立つ小動物のどちらかに脅されて嫌々……。 「ま、あり得ませんわね」 仮にそうであるなら、あの小うるさい少女があんなに嬉々として幽魔に立ち向かおうとするはずがない。 「……」 そこでふと、考えるだけ時間の無駄である事に気づいたリンカは、再度眼下の景色を見下ろす。 「そんな事よりも、ですわね」 そこは先ほどまで、あの『原初の者(プライマル)』がいた場所。 同時にその周囲は配下の幽魔たちの群れに囲まれ、近づけはしなかった。 自身の強力なギフトをもってすれば、その一角を消滅させる事は確かにたやすいだろう。 しかしながら相手の圧倒的な物量の前に、その程度焼け石に水という事も当然理解していた。 かと言って『原初の者(プライマル)』だけを狙って強引に接近しても、一斉に幽魔たちに飛び掛かられ、引き裂かれ、千切られ、喰われるのは目に見えている。 「と、なりますと……」 しばらく考えていたリンカは、結論が出ずに息を吐いた。 「要するにあの役立たずたちが到着する前に、配下の幽魔たちに邪魔もされずに、『原初の者(プライマル)』だけを討つ。……これほど難しいとは思いませんでしたわ」 そうつぶやき、頭上のクリーム色の月を見上げる。 「……さて。わたくしも明日に備えて休養を――」 『汝、力が欲しいか』 「……っ!」 ゾワッとした悪寒と共に、背後を振り向く。 そこには誰もいなかった。 そして、今しがた聞こえた声も実際に語り掛けられたわけではないと、少しの間を置いて気づいた。 だがまるでそのように錯覚してしまうかのような、頭に直接思考を押し付けてくる者は。 「『原初の者(プライマル)』……っ!」 辺りを見回しても、眼下の夜の小道を見下ろしても、その姿はどこにもない。 だが、リンカ本人のものではない思考がどこからか流れ込んでくる。 『再度問おう。汝、力を求めるか』 「……お断りしますわ……!」 なおも周囲を探すが、声の主は見当たらない。 そんな彼女をあざ笑うかのように、相手は続ける。 『汝が求める強大な力を、我が与えてやろう』 「……あなたも人の話を聞きませんのね。不要、と言っているのですわ。去りなさ……」 『汝の奥底に、力を渇望する姿が見えた』 「……っ!」 いつしかリンカは、荒い呼吸でその場に膝をついていた。 『汝の望みは、他の他者が決して届かぬ高み。自身だけが至高の強者となる。そのための絶対的な力を、望んでいるのであろう?』 頭の中から語り掛けてくる、甘美な誘惑。 自身の望みを確かに言い当て、いくら努力しても未だ無しえぬそれを、いとも簡単に与えるという。 「わたくし、は……っ!」 「……」 『力を与える対価に、我が望むのは――』 声がより一層、彼女の頭の奥深くまで突き刺さり。 それを最後に何も聞こえなくなる。 「……」 無言で立ち上がった彼女の口の端に、ニィと濃い笑みが浮かんだ。 自室に入るなり、タイキはベッドに倒れ込んだ。 今になってようやく疲労感が襲ってくる中、ふと今日の出来事を思い返していた。 今日は色々な事があった。 まず浮かんだのは、あの『原初の者(プライマル)』と相対した事。 あんなものに勝てるわけがない。だが、勝たなければ自分もマソラも再度殺される。 だから、やるしかないのだ。 「……」 そもそもどうしてそんな流れになったのだったか。 ああ、そういえば最初は奴らが学食にまで押しかけてきて、かと思えば放課後は喫茶店に呼び出されたのだった。 それから一緒にゲームセンターに行く事になり―― 「……」 そこで浮かんだのは、遊んでいる最中のクロエの表情だった。 もちろん満面の笑みというわけではないが、あの時の彼女はどこか楽しそうだった。 「……」 ふとタイキは起き上がり部屋の明かりを点け、カバンの中からあるものを引っ張り出した。 ずっと持ち歩いていたせいですっかりぬるくなってしまったそれは、あの時お礼として渡された紙パックの乳酸菌飲料。 「4本買ってやって、お返しはたった1つ、ってか……」 つぶやきながら再度寝転がり、手の内で紙パックを転がす。 これに込められた彼女の気持ちは、嘘では無いような気がした。 一緒に遊んで楽しかったという言葉と、そのお礼。 「……」 それから思い出す、その後の事。 彼女が住んでいるというマンション内で、一瞬だけ見せたあの表情。 自分が『魂の棺桶』を奪い取ろうとしたその時、彼女はどこか悲しそうな色を浮かべた。 それはまるで、タイキがクロエに協力しているのも一緒に遊んだのも、全てが全て脅されて嫌々やっているという事実に気づいてしまったかのようで。 そして。 「……くそ」 舌打ちと共に思い返す、あの時の言葉。 別れ際にクロエが発した、たった一言。 それだけが、脳裏から離れなかった。 『……死なないで』 「……くそ、何なんだよ、最初からお前が脅さなければ死ぬもクソも無いだろうがよ……!」 ゲームセンターを楽しんでいた彼女と、マンションでの悲しそうな彼女。そして先ほどの一言を発した彼女。 対して、自分たちを脅した時の彼女。 それらが、まるで別の人物の事であるかのようにさえ思えて。 もしあの脅しさえなければ、あの彼女に対する態度は変わるのだろうか。 もしあの脅しさえなければ、彼女の仕事も喜んで手伝うようになるのだろうか。 「……」 一瞬、クロエがいい奴なのではないかという考えにふと至ったが、すぐにそんなわけはないと首を振った。 もしそうであるのならば、最初からこちらを脅したりはしないはずだ。 あの髑髏だって、大事にしまっておけと渡すはずだろう。 「やめだ、やめ!」 訳が分からなくなってきてそう叫んだタイキは、部屋の明かりを乱暴に消して目を閉じた。